2014年6月29日日曜日

ちょうどいい って

今日はグラウンドに面した植え込みの棉の間引きをしました。
いっしょに間引いた人たちは、「間引く」ということにちゅうちょして、なかなか間引けず、わたしが「でもそうしないとけっきょく共倒れみたいになってしまうから」とけしかけて、やっとこ抜いてもらい、いくつは持って帰って育てていただくことになりました。

自然の中では、どういう草木たちも、自然に生き残って、伸びるもの小さく生きるもの、消えるものがありますが、人の手で育てるものは、人が手をくだして、その選択をします。しなくてもいい、というやり方もあるけれど、棉の場合は私の経験ではしたほうがいいので、選ぶことを、、、、、選んでいます。

こういうふうに抜くくらいなら、最初から抜かなくてもいい育て方をしたらいいんだけどなあと、自問します。
でもどのくらい発芽するか、また途中で虫に食べられるかわからないので、多めに蒔くのです。

たくさんの卵からいくつかが孵って、また卵を産める成体になるものが、ほんの少ししかできないように、生物界はなっています。
なんでこんな無駄なことをするんだろうとうらめしくなるけれど、それが事実。
わたし自身も、たくさんの精子や卵子から、たった一つ同士が結びついてわたしになったのです。あなたもね。

でも、まったく無駄なく、というのは、生き物だけでなくて、仕事でもそうはできない。なるべく合理的に、とわたしでさえ少しは考えますが、できません。
保存食というのもそうです。
今は冷蔵庫もあるし、流通も整っているから、保存食をつくったところで、たいてい余っています。

自分の暮らしを眺めてみて、ちょうどいいってことがないように感じる時があります。
多すぎるか少なすぎるかのどっちかばかり。

でも、こうして生きているのだから、ちょうどいいのかな、と、
激しすぎる雨風と雷をあびて、ぬくぬくと思ったりしています。

今日の雨風で、あの梅の実も全部落ちたでしょうか。
虫たちが食べて、微生物がかもして、土に還り、けっきょく無駄ということはないのですね。
無駄、というのは人間本意の感覚なのでしょうか。

2 件のコメント:

  1. 言葉でいろいろ調べてみると、丁度というのは、とても奇跡的な絶妙なタイミングで起こる、たぐいまれな状態なのではないかと思ったりしました。
    だから普段は丁度いいっていうのが少ないのかなぁ。。だとしたらそれでもいいのかなって思ったり。

    多かったり少なかったり。揺らぎながら何か進んでいくのでしょうね。

    そう思うと、まぁ過不足なく丁度いい暮らしっていうのも、なかなか鍛錬が必要な事ですよね。全て多すぎることも少なすぎることもその経験が必要なんだろうけれど。

    仕事の事や、間引き問題。。そうねそうねっておもいます。(遠い目)

    その時は無駄だと思っていても実は必要だった、なんてこともありますよね。

    全体からみると全て必然なんだろうけれど、やっぱり人間はその時の自分の都合で考えてしまいますね。。。。

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  2. 奇跡的なタイミングですか!
    では人と人がちょうど出会うのは、ほんとに奇跡なんですね。
    わたしたちが生まれて生きているのも。。。
    奇跡同士の出会いなのね。

    そうそう赤紫蘇と梅の奇跡の出会いもこれからはじまるね。

    コメントありがとうございます。

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